af Magazine
〜旭硝子財団 地球環境マガジン〜
温暖化問題を社会に伝え続けてきた気象学者
〜2013年ブループラネット賞受賞・松野博士〜
「温暖化による記録的猛暑」や「強い台風は温暖化のせいか?」――テレビや新聞、ネットによる報道でも、年間を通じてこうした言葉が聞かれます。地球温暖化は、現在では誰もが一般常識として知る問題ですが、科学的根拠をもってこの問題を正しく認識するまでには多くの研究者の努力があったのです。松野太郎博士は、そうした研究者のひとりで、日本における地球温暖化研究の先頭に立ってきました。日本の地球温暖化研究のプロジェクトリーダーをつとめ、国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」にも参加して、2013年にブループラネット賞を受賞しました。気象学を専門とし、60年以上にわたり大学や研究所で研究・教育に携わってこられた松野博士。天気図少年だった博士が、数値天気予報を学び、そして地球温暖化予測を研究されるまで――移り変わる時代のなかで、科学者として何を見て何を感じ、何を志してこられたのでしょうか。
「地球シミュレーター」で気候変動を予測。日本の一大プロジェクトを率いてブループラネット賞を受賞
2013年、第22回ブループラネット賞を受賞した松野太郎博士。気象・気候の変化を科学的理論に基づいて分析・予測し、コンピューターを用いたモデルによって地球温暖化のメカニズムを明らかにする研究プロジェクトに携わってきました。博士の功績としてもっともよく知られているのが「地球シミュレーター」を用いた気候変動予測の研究です。
「気象・気候モデルの研究は、数ある科学分野のなかで、もっとも高性能な計算機を必要とする分野です。世界各地の気象状態の変化を物理の法則をもとに10分とか1時間とか一定の時間間隔で、気象(天気)予報なら10日先、気候予測なら100年先まで計算していくのです。日本では最初、そもそも研究分野に使う計算機が1台もなかったんですよ。1970年代に計算機が導入されて、1990年代にやっと世界水準の計算ができるようになりました。温暖化が国際政治の大問題となったことを背景に、日本で世界トップレベルの計算機を開発し、地球温暖化予測など環境問題に重点をおいた研究を進めようと2002年に始まったのが、私がプロジェクトのリーダーを務めた、文科省の地球シミュレーターによる気候変動予測研究計画なのです」(松野博士)
いくら高性能な機械があっても、それを扱うのは人間です。当時「地球シミュレーター」は、既存の計算機の1000倍の能力を持っていました。松野博士は、この精緻な計算機を有効に活用して、いかに成果を出すかという難題に取り組みます。日本中の関連研究者が協力し、一体となって温暖化実験を行える体制がつくられました。2002年に始まり、1期5年で2期10年間のプロジェクトで得られた成果は数多く、例えば世界で初めて20kmメッシュ、20km×20kmの網目で地球を区切った気候変動予測などが挙げられます。この成果は、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」第四次報告書に「最高解像度モデル」として掲載されています。
「突然大きな計算機を与えられての研究は大変難しいものでしたが、若手研究者の献身的努力により、世界の最前線に躍り出ることになりました。しかし、ブループラネット賞の受賞は、私自身にはまったく予期せぬ出来事で、知らせを受けたときは困惑したんです。というのも研究者としての私自身は専門家ではなく、一編の論文も書いたことがなかったからです。しかし、研究を促進したり成果を社会に結びつけたりする活動も対象と知ってお受けしました。受賞は、困難な研究を成し遂げた多くの日本の研究者の代表として、私が受けたものと思っています。私よりも年上の先輩たちはみんな、アメリカに渡って研究をしていましたので、日本でのモデル研究環境を整えることは私の願いでもありました。90年代から専門研究組織の立ち上げに関わり、そしてそれらの組織が一体となってのプロジェクトに関われたことをとてもうれしく思っています」(松野博士)
出発点は、ラジオを聞いて自前の天気図を描く「天気図少年」
気象学を専門として、60年以上大学や研究所で教育と研究に携わってきた松野博士。その原点は、少年時代にさかのぼります。
「私は小学5年生から高校卒業まで、茨城県の水戸市とその近郊で過ごしました。戦後に転居した勝田町の周辺は田んぼや畑ばかり。わが家も畑を借りて野菜やじゃがいもをつくり、食糧難の助けにしていました。飼っていたウサギにエサを与えるため、クローバーやオオバコ、ナズナなどの雑草を刈りに行くのが私の日課でした。そんなある日、濡れた草はウサギによくないと聞き、天気の変化に注意するようになりました。そのような生活の中で、次第に気象への関心が育まれていったように思います。田舎の夜空は美しく、星にも興味をもち、文筆家であり天文学者でもあった野尻抱影の本などを好んで読んでいました」(松野博士)
そして、中学1年生のとき、松野博士を気象学の世界に誘った決定的な出来事が起こります。理科の授業の一環で、水戸の測候所を訪問したときのこと。見学を終えた帰り道、大事な万年筆をうっかり忘れてしまったことに気づき、松野少年はひとり測候所に引き返します。
「快く私を迎え入れてくれた測候所の方は、さらにいろいろなことを教えてくれました。私はそのとき初めて、"天気図"というものを見たのです。1947年9月、東京で大きな被害を出したキャサリン台風(カスリーン台風)が来る直前のことでした。戦時中の気象データは軍事機密で、戦後になってもしばらくは新聞に天気図を載せることはなかったため、"天気図を描いて将来の天気を予報する"ことを知り、衝撃を受けました。さっそく、家にあった百科事典を引いて理解に努め、漁船などに向けて気象通報がラジオ放送され始めると、毎日それを聞いて自分で天気図を描き始めるようになったのです。日本周辺の緯度経度入り地図をつくって原図とし、父が仕事で必要としていたコピー用カーボン紙を使って、毎回原図から日本周辺の地形を写し、天気記号と等圧線を描きました。そうして私は"天気図少年"になったのです」と、松野博士は当時の思い出を生き生きと振り返ります。
温暖化科学の基礎がつくられた1960年代。科学者として社会に知らせる使命があった
中学2年生のときに始め、高校時代を通じて天気図を描き続けた松野博士は1953年に東京大学教養学部へ進学。3年生になり、気象学を学ぶために物理学科地球物理コースへ。1957年に東大大学院へ進み、気象研究室に所属して、研究者としての道を歩み始めます。折しも気象学は大きな転換点を迎えていました。天気図を用いた予報者の経験による予測から、運動方程式など物理学の法則に基づき将来の気圧や風を計算して求める、客観的科学としての「数値天気予報」へ。1950年代に電子計算機が生まれ、膨大な量の計算が可能となり、急速に研究が進められていました。そんな転換期にあった気象研究室で、松野先生は、第1回ブループラネット賞受賞者でもある真鍋淑郎博士と出会います。
「1年半、同じ研究室で真鍋先生と過ごしたことは、私の研究人生の方向性を決める出来事でした。先生とは本当にたくさん議論したものです。真鍋先生が渡米されてからも、私がアメリカに行ったり先生が日本に来られたり、その都度お会いしてはたくさん話をしましたので、論文以上に先生の理論をよく知ることができました。真鍋先生は、地球温暖化を科学の問題として具体的に論じた最初の科学者です。大気中の二酸化炭素の増加によって世界各地の地表気温がどれだけ上がるのか、正しい理論的枠組みに基づき妥当な実験データを用いて、最初にして決定的な数値を算出されました。私をはじめ、世界中の仲間たちが、真鍋先生の理論に基づいて研究をしています」(松野博士)
こうして真鍋博士と出会った松野博士は、科学者として地球温暖化問題を研究し、多くの人に伝えていく責務を感じたと語ります。
「偶然にも真鍋先生の理論をよく知ることができたわけですから、私は教える側に立ってから、真鍋先生に代わって地球温暖化問題を多くの人々に知らせていくべきだと感じるようになりました。1970年頃、地球温暖化問題について知る学生はほとんどいませんでしたね。地球温暖化は、人間の活動によって生じた気象災害といえるもの。しかも、パッと見てわかるような簡単なものではなく、非常に茫漠としています。世界中で二酸化炭素の増加により温暖化が起きていることが見え始めていた時期に、科学者としてこの問題を伝えていくことは使命だったと思っています」(松野博士)
「解明できない問題はない。社会に貢献する自分だけのテーマを探してほしい」
60年以上の科学者人生を振り返り、松野博士がもっとも苦労したのは「研究テーマを見つけること」だったと言います。
「東大大学院の気象研究室にいた当時、特に教授からの指導がなかったため、自分で研究テーマを見つけることになりました。結局、私は、赤道上での大気の動きについて研究しました。低気圧は北半球では反時計周り、南半球では時計回りに風が吹くということはよく知られていたのですが、では赤道上ではどうなるのということを調べた人はいなかったのです。最終的に赤道上を東向きに動く波があるという、とてもユニークな結果が得られ、その理論はエルニーニョ現象を説明するのに大事なひとつのピースとして現在も役立っています」(松野博士)
その後も松野博士は、世界の気象学者の間で重要問題と共通認識されていながら10年以上謎だった「成層圏突然昇温」の研究に取り組んでその解明に成功。「成層圏突然昇溫」とは、通常は気温変化が緩やかな成層圏において、冬の北極付近の上空では数日の間に30度以上気温が上昇する不思議な現象を指します。
さらに2020年現在でも、海洋研究開発機構の特任上席研究員として、地震発生のメカニズムにつながる「マントル対流」を解明しようとするなど、科学者としての研究は尽きることがありません。
「若い研究者のみなさんにも、ぜひ自分の全力をかけて科学の先端を進み、社会に貢献できる研究テーマを見つけてほしいと思います。そして、挑戦する気持ちを忘れてはいけません。解けない問題はないという気持ちで研究に取り組む志が大切です。成層圏突然昇温の問題については、当時その周辺研究をしている研究者はたくさんいましたが、問題の中心そのものに迫ろうとする人はあまりいませんでした。私は、それはおかしいと感じて、この問題に取り組むことを決めて解明できました。地球温暖化と気候変動予測の分野も、まだまだ多くの問題が残されていますが、 世界中の研究者仲間と協力して取り組んでいけば、解けないはずはないと考えています」(松野博士)
Profile
松野 太郎(まつの たろう)
海洋研究開発機構 地球環境変動領域 特任上席研究員
1934年生まれ。東京大学大学院博士課程修了後、九州大学助教授や東京大学教授、北海道大学大学院教授を歴任。2002-2007年 「人・自然・地球共生プロジェクト 」、2007-2011年「21世紀気候変動予測革新プログラム」という地球シミュレーターを用いた文部科学省のプロジェクトに携わる。気象科学の研究・予測・解明に優れた指導力を発揮、地球温暖化と気候変動について世界の認識を深めることに大きく貢献し、2013年にブループラネット賞を受賞。