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〜旭硝子財団 地球環境マガジン〜

幻の淡水魚・イトウの生息状況を調査。新技術・環境DNA調査が生物多様性の未来を拓く

「イトウ」という名前の淡水魚をご存知でしょうか。かつては北海道〜東北北部に生息していましたが、近年見られるのは北海道のみとなった絶滅危惧種の魚です。こうした希少種は、どこにどれだけ生息しているのか、その実態を知ることが非常に難しく、生態学における大きな課題となってきました。北海道大学の荒木仁志教授は、この課題を「環境DNA」技術で解決できるのではないかと考え、イトウの調査を実施。本研究を通じて、環境DNAの調査や分析の大きな可能性が見えてきたと語ります。

希少であるほど生態解明が困難。日本のチームが新技術「環境DNA分析」を使った調査に着手

北海道大学 荒木仁志教授
北海道大学 荒木仁志教授

サケの仲間の「イトウ」は、体長が1〜2mにもなる日本最大の淡水魚。環境省のレッドリストでは、近い将来野生での絶滅の危険性が高い「絶滅危惧ⅠB類(EN)」に指定されています。日本では現在北海道のみに生息していますが、「幻の淡水魚」と呼ばれるほど、その目撃数は減少しています。

北海道大学で集団遺伝学・生態進化学・保全遺伝学などを専門とする荒木仁志教授は、「環境DNA分析」を用いた調査により、イトウが、どこにどれだけ生息しているのかを探る研究に取り組みました。その背景には、生息数が少ないために、実質的にも保全の観点からも調査が難しいという希少種共通の課題がありました。

「捕獲して傷つけてはいけませんし、イトウは濁ったところに生息するという特徴も加わって、調査がとても難しい魚です。どんどん分布域は狭くなっているだろう、とは言われていたのですが、現在どこにどれだけ残っているのか、どんな環境であれば残っていられるのか、そういった具体的な生息状況は全くわかっていませんでした。そこで環境DNA調査が良いのではないかと考えたわけです。川の水を汲み、それにイトウのDNAが含まれているかを調べ、その存在を確認するという方法で、これならイトウを傷つけず、イトウ本体を見つける必要すらありません」(荒木教授)

環境DNA分析とは、近年急激に発展している生態系の解析技術です。海や川、湖沼などの水には、生き物の体表の粘液や糞などと共に放出されるDNAが含まれています。このDNAを検出し、解析することで、どんな生き物が存在していたのかを知ることができます。

「環境DNA分析は、2008年にフランスで最初の論文が発表されてから、しばらく忘れられていた技術でした。それを、日本の研究者たちがもっと活用できるのではないか、とグループを立ち上げて、世界に先駆けて改良・開発してきた技術です。私もそのグループの一員となって、一緒にこの手法を開発・実践してきました」(荒木教授)

淡水魚イトウの環境DNA調査を実施。この手法の課題と可能性とは

日本最大の淡水魚・イトウ
日本最大の淡水魚・イトウ

「調査を行った当時、環境DNA分析はまだ知名度の全くない技術でした。私も、共同で研究を行った学生も、どこまでこの技術が調査に使えるものなのか、とにかく確かめたいという思いがありました」と荒木教授は当時を振り返ります。

まずはイトウを飼育している北海道の研究施設に赴き、イトウの水槽の水をサンプルとして入手。どれくらいイトウのDNAを検出できるのかテストを行いました。このテストは大成功し、イトウの飼育頭数が増えると、DNAの量が増えることまでもが確認できました。しかし、次のステップとして行った川での調査は、雪解け水による増水、落ち葉などの堆積物の流入など不確定要素が非常に多く、生物の量と検出されるDNAの量が一致しないようだということがわかりました。

「実際には、現在の技術で個体数を調べることまでは難しい、という技術的な問題が明らかになりました。そこで、量的なことはひとまず置いておき、まずどんな川にイトウが存在するのかを調べるというアプローチに切り替えたのです」(荒木教授)

かつてイトウが分布していた46河川のうち、安定した個体群を維持しているのはわずか7河川。これが、2007~2008年に報告されたイトウの最新情報でした。しかしこれは元々分布するとされていた46河川を調査したもので、北海道内でイトウの調査が行われたことがない地域はたくさんあり、半分以上の地域で生存情報が欠落していました。

希少種の分布が明らかでなければ、保全活動の優先順位の判断を誤ったり、ひっそりと生息していた生き物が地域でいつのまにか絶滅したりといった事態もあり得ます。とはいえ、水生生物の分布調査は時間と人的資源の限界があります。

「そこで労力を大幅に削減できるのが環境DNA技術です。北海道全域での分布を同時に、かつ網羅的に把握することを目的に調査を行いました。結果として、全道125河川を調べ、8河川でイトウのDNAが検出されました。その中にはこれまでイトウの分布情報のなかった3河川も含まれます。イトウのいる可能性がある河川を新たに発見できたことは嬉しい成果でした」と荒木教授は言います。

もうひとつ、イトウの生息できる環境が見えてきたことも、研究で得られた成果です。

「勾配がなだらかな川を好むと言われていましたが、イトウのDNAを検出したのはまさにその条件に当てはまる川ばかりでした。それに加えて河口近くにラグーン(潟湖)が存在する川を好むなど、より具体的な環境条件を科学的に示せたことも大きな一歩だと感じています」(荒木教授)

科学は生物の保全にどう関わることができるか。常に実践とのつながりを意識して研究

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荒木教授は個人的に、野生のサケを川に戻す「札幌ワイルドサーモンプロジェクト(SWSP)」で活動。写真は札幌市内を流れる豊平川で野生のサケの稚魚を調査中の教授(写真提供:SWSP)

荒木教授が、自身の転機となったと振り返る、ある論文があります。アメリカのオレゴン州立大学勤務時に研究し『サイエンス』誌に2007年に掲載された『Genetic Effects of Captive Breeding Cause a Rapid, Cumulative Fitness Decline in the Wild(人工飼育の遺伝的な影響は自然繁殖力の急速な低下をもたらす)』という論文です。これは、野生で減少した魚の数を補うために人工的に飼育した魚を放流した場合の、長期的な種の存続への影響を調べた研究でした。調査の結果、飼育され放流した魚から2世代、3世代と世代が進むと、繁殖能力が世代あたり40%程度低下するという結果が示されました。

「発表後、保全団体などの関係者からたくさんのコンタクトがあり、それは私にとって全く予想外のことでした。自分の研究が、生物の保全活動のあり方に大きな影響を与えたと、その時実感したのです。この出来事から、実際の保全活動に役立てるために、科学者ができることは何か?と考えながら研究に取り組むようになりました」と荒木教授は語ります。

この経験は、イトウの調査にもつながっています。荒木教授は北海道各地にいるイトウの保全に取り組む団体と連絡を取り、目撃情報の共有などを依頼。調査する河川の選定に役立てました。荒木教授からは、研究結果を団体と共有し、実際の保全活動に反映できるようにしているそうです。

「環境DNA分析は、誰もが協力しやすいという利点がある技術だと思っています。水の採取だけならば、それほど難しいことではありません。今後、民間の保全団体にマニュアルを配布し、水の採取を依頼するやり方も考えています。地元住民の方々が調査に加わることで、地元の絶滅危惧種を知り、保全を考えようという機運が高まるはずです。そこに私たちが研究結果や知識を提供して、一緒にどうしていくか考えていければと思っています」(荒木教授)

世界中で活用が広がり始めた環境DNA調査。連携して開発する段階へ

2023年5月17〜19日に行われた環境DNA国際会議で発表を行う荒木教授
2023年5月17〜19日に行われた環境DNA国際会議で発表を行う荒木教授

荒木教授ら、環境DNA技術の開発を進めてきた日本の研究者グループは、2018年に環境DNA学会という組織を立ち上げました。環境DNAに特化した学会は、世界でも初めての設立でした。環境DNA技術は、その発展とともに世界中から注目されるようになり、2023年5月には滋賀県で国際会議も開催されました。

「環境DNA技術は、私の専門である遺伝的特徴を調べることにも役立ちます。例えばフクドジョウという北海道によく見られるドジョウは、環境DNAを調べてみると、地域によって遺伝的特徴に違いがあり、どうも来歴が異なるようだとわかりました。種内の遺伝的多様性の状態を探ることもできます。もうひとつ、この技術は、モニタリングにも適しているのです。毎年同じ時期に、同じ場所で水を採取しておけば、長期間の変化を観察できます。イトウについても、今後そうした長期間のモニタリングで、大雨などの環境変化が彼らに与える影響を調べていきたいと考えています」(荒木教授)

荒木教授は、「生物多様性は危機に瀕している」と曖昧に捉えるのではなく、「人間の活動によって、生物多様性が損なわれる速度があまりにも早くなり過ぎている」ことに危機感を持つことが正しい態度ではないかと話します。

「生き物の世界は我々の知らないことばかり。見えているだけでもたくさんの種が失われていますが、我々の知らないところでは、きっともっとたくさんの種が消えています。私たち科学者の仕事はまず、そうした見えない世界を視覚化し、何がどれだけ今存在しているのかを明らかにすることです。損失に対して人間社会の問題がどこにあり、どう解決するかというのは社会学的な問題で、私たちはそこに情報提供をしていく側です」

一方で、荒木教授は一市民として、自然から受け取ってきた恵みを、先の世代も受け取れるように活動していきたいと考えています。個人的に、札幌の川に野生のサケを戻す市民団体のプロジェクトに参加し、調査活動などに取り組んでいるそうです。

「誰もが、身の回りの自然に目を向けることからしか、生物多様性の未来を変えることはできないのではないでしょうか。結局大きなことをいきなり実行することはできません。大切なのは、自分たちの周りにいる動植物に目を向けて、自分で働きかけることができるような活動です。私の研究によって、そうした活動を進めるための材料が提供できればとも思っています」(荒木教授)

    

Profile

荒木 仁志(あらき ひとし)
北海道大学大学院
農学研究院環境資源学専攻教授

集団遺伝学、生態進化学、保全遺伝学などを専門に、生態・進化のメカニズムを解明するために、遺伝子の本体であるDNAを解析することに取り組む。シカゴ大学 生態進化学科 ポストドクトラル・フェロー、オレゴン州立大学動物学科ポストドクトラル・リサーチアソシエイト、スイス水圏科学技術研究所魚類生態進化学科グループリーダーを経て現職。

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