af Magazine
〜旭硝子財団 地球環境マガジン〜

なぜ生物多様性の保全に「行動経済学」を用いるのか。ネイチャーポジティブの新しいアプローチ



いま気候変動と並んで世界的な問題になっているのが、生物多様性の危機だ。

最近では、生物の多様性を「維持」するだけではなく、「喪失を食い止め、回復させる」ネイチャーポジティブという考えも広まりつつある。

生態系との関わりにもっと目を向けて、私たちの力で未来を変えていくには、一人ひとりの行動や考え方が大きく変わる必要があるが、正しい情報取得を促し人々を動かすのは簡単なことではない。

そこで、「経済学」や「行動科学」などによるアプローチから生物多様性保全に取り組む、国立環境研究所の久保雄広主任研究員に、人の行動が変わるきっかけや研究から分かってきたことを聞いた。


見過ごされてきた「生態系の価値」

久保氏
久保雄広(くぼ・たかひろ)氏/国立研究開発法人国立環境研究所 生物多様性領域 主任研究員、オックスフォード大学 客員研究員。「人間行動に立脚した生物多様性保全の促進」をテーマに、社会科学的アプローチ(特に経済学、行動科学、マーケティング)の知見に基づいた研究に取り組んでいる。


久保氏は現在、 "人に行動変容を促すことで生物多様性保全を推進する"ためのさまざまな研究を進めている。

日本では、それぞれの生物の分野で研究を進めている専門家は多数いるが、久保氏のように経済学や行動科学といった切り口から、生物多様性全般について横断的に取り組む研究者はまだ少ないという。

そんな久保氏が当初から研究の参考にしているのが、「生態経済学」の第一人者とも言われているロバート・コスタンザ教授 ※1の論文だ。

コスタンザ教授は2014年に発表した論文内で、全世界の生態系サービス(生態系から人間が得られる恵み)の価値を体系的に評価し、その推定価値は年間125兆ドル(2007年の米ドル換算)と発表。

それまでの"経済成長重視"の現代社会で見過ごされてきた生態系サービスの価値に、世界の人々が目を向ける大きなきっかけをつくった功労者だ。

「私が所属している国立環境研究所でも、2020年に霞ケ浦(茨城県)の生態系がもたらす多面的な経済価値を試算しました。

すると、霞ケ浦の生態系サービスの経済価値は、年間1217億円以上という結果に。 ふだん目に見えづらい生態系サービスの価値を、誰もが理解しやすい金銭的価値に換算することで、その価値の可視化を進める第一歩となりました」(久保氏)

※1:ロバート・コスタンザ教授は、その功績が認められ、環境問題の解決に向けて貢献した個人・組織を表彰する国際環境賞「ブループラネット賞(主催・旭硝子財団)」の2024年(第33回)受賞者に選ばれた。


人が行動を変える、3つのきっかけ


久保氏が研究を進める「生物多様性✕行動変容」のアプローチ。人が行動を変えるきっかけは大きく3つに分けられるという。

「1つ目は、トップダウンによるアプローチ。最も伝統的で強制力のあるやり方です。

2つ目は、インセンティブ。例えばお金を与えるなど経済的な報酬を与え、行動変容を促すものです。

そして3つ目は、行動の強制や経済的なインセンティブなしに自然な行動変容を促す、いわゆる"ナッジ理論"を活用する方法です」(久保氏)


久保氏は、これら3つのアプローチを組み合わせ、生態系の保全を地域経済に組み込むための研究を進めてきた。

そもそも生物多様性の保全には、メンテナンス費用や監視員の人件費などの資金が欠かせない。実際に資金不足は生物多様性の喪失につながっていて、資金が潤沢な地域や場所では生物多様性が守られる傾向にあることを示す研究結果もあるという。

自然資本が豊富な自治体では、生物多様性を守ることで観光客が増え、結果的に地域経済も潤う。そういった証明ができれば、地域住民が行動変容を起こすきっかけになるのではないか──そう考えた久保氏が取り組んだのが、鹿児島県・奄美大島での『アマミノクロウサギツアー』を通じたフィールドワークだ。

Shutterstock / Fahroni
アマミノクロウサギは、2004年に国内希少野生動植物種に指定されている(写真はイメージです)。
Shutterstock / Khun Ta

「アマミノクロウサギは、奄美大島と徳之島だけに生息していて、絶滅危惧種に指定されている動物です。

そんなアマミノクロウサギの個体数が増えて、ツアーで遭遇する確率が高くなった場合、利用者がツアーに払ってもいいと考える料金はどう変化するのかを調査しました。

すると、ウサギに出会う確率が高まれば、ガイド収入は20倍になる可能性があるという結果に。これは、生物多様性の保全が観光産業にも大きな経済効果をもたらすことを示しています。

ガイド事業者をはじめとする観光従事者が保全活動に参加するインセンティブを可視化することで、議論の足がかりを提供した事例です」(久保氏)


どの箱が一番募金を集められるか?

Shutterstock / L.O.N Dslr Camera
北海道の国立公園で実施した募金活動の実証実験の様子。
本人提供


さらに久保氏は、募金活動を通じた実証実験も行った。

場所は北海道の大雪山国立公園。登山道補修への寄付をしてもらうためには、どのような情報提示が最も効果的かを調べるために、3つの募金箱を準備したという。

① 中身が見えない白い箱
② 中身が見えない、かつ"100万円の目標額と現在50万円以上が集まっていること"を明記した白い箱
③ 中身が見える、かつすでに集まった金額を提示した透明の箱

「結果は、参加率(寄付の件数)だけで見ると多い順に ②>③>① 。

一方、一人あたりの平均寄付額を多い順に並べると、②>①>③ でした。

中身が見える透明の募金箱(③)の平均寄付額が少なかったのは、10円などの少額寄付が目に見えたことで参加のハードルを下げる一方、自分もこのくらいでいいかと少額を寄付する人が多かったためと推察されます。

この実証実験から、目標金額を提示し、協力者がすでに多くいることを見せることが参加意欲を促し、多くの寄付を集めるのに最も効果的だということが分かりました」(久保氏)


「あつ森」は自然保護のツールになるか?

イギリスでの研究留学時代は、日本の人気ゲームを扱った共同研究を行った。
本人提供


ユニークな取り組みで話題になったのが、イギリス、ケント大学の研究チームと共同研究を行い発表した『Could Nintendo's Animal Crossing be a tool for conservation messaging?(任天堂の「どうぶつの森」は自然保護のためのツールになり得るか?)』という展望論文だ。

イギリスに研究留学していた際、コロナ禍でロックダウンに遭遇した久保氏。

実際の自然体験が限られる中で、さまざまな動植物が登場するNintendo Switchのゲームソフト『あつまれ どうぶつの森(以下、あつ森)』が、実体験を補いつつ、生物多様性保全に関するメッセージを発信するツールとして活用できないかと考えたのが研究のきっかけだという。

「あつ森を分析した結果、このゲームは、自然保護へのメッセージを発信するツールとして十分に機能し、多くの人々に生物多様性保全への行動や態度変容を促す大きな可能性を秘めているものだと感じました。

特に着目したのは、捕まえた虫や魚を"博物館"に寄贈する仕組みです。

寄贈時、館長であるフクロウをモチーフにしたキャラクターがそれぞれの生物についての説明をしてくれるので、環境教育にもつながります。

また、ゴミ拾いをすることで貯まるマイレージもあり、これは現実世界でも自然保護に取り組む行動変容のきっかけになりそうです」(久保氏)

一方、現実世界の問題と結びつけるための改善案も提案する。

「登場する生物の種が哺乳類に偏っていて現実世界との乖離があることや、本来その島にいない侵略的な外来種を放流できてしまうなどの課題もあると感じました。

生物多様性保全の観点からさらに教育的なコンテンツとなるよう、ブラッシュアップできる余地があることも論文には明記しています」(久保氏)


未来は、私たちの手で変えられる


さまざまな切り口から生物多様性保全につながる行動変容を研究する久保氏。今後の生物多様性保全の促進にむけて鍵となるのが『ピア効果』だという。

ピア効果とは、集団内の個人の行動や意思決定が、周囲の仲間(ピア)からの影響を受ける現象のことだ。

「日本は世界と比べても、国民の連帯感や責任感が強い国だと感じています。

誰かが動き出して"良い"となれば、同じ方向を向きやすい。生物多様性保全に関しても、"あの人が取り組んでいるならやってみよう"といった方向に働けば、爆発的に浸透するのではないでしょうか。

ただし、その際に個人が過度に我慢しなければならない社会になるのは少し違うと思うんです。みんながより良い未来を想像したり、自然の美しさや雄大さを楽しんだりしながら取り組み続けることが大事だと思っています」(久保氏)


2024年のブループラネット賞受賞団体である、IPBES(イプベス:生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学-政策プラットフォーム)事務局長のアン・ラリゴーデリー博士は、「宇宙からみたらちっぽけで弱い地球を、私たちの手で守っていきましょう」と呼びかけている。

久保氏も「人の行動が変われば未来を変えられる」と語る。企業、そして個人の行動変容が、これからの未来に関わる生物多様性の喪失を食い止める鍵となるだろう。




ページトップへ