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〜旭硝子財団 地球環境マガジン〜
生物多様性の10年とこれから。「何をすべきかはわかっている。政策や経済の中心に生物多様性を据え、喪失を止める時」
生物多様性、生態系サービス、そして自然が人間にもたらすもの(NCP:Nature's Contributions to People)についての知見と科学を提供する最先端の政府間組織である「IPBES(イプベス)」が2024年にブループラネット賞を受賞しました。IPBESは、2012年の設立以来、生物多様性に関する知識を科学的に評価し、生物多様性の喪失状況と保全を世界に訴え、政策決定や行動を促進するために必要なたくさんのデータを提供してきました。事務局長を務めるアン・ラリゴーデリー博士に、生物多様性の重要性、そしてその喪失を止め得る具体的なアクションについてお話を伺いました。(2024年5月インタビュー、2024年10月24日受賞記念講演より再構成)
IPBESは、生物多様性や自然が人々にもたらすもの(NCP)を評価し、政策や意思決定、行動のための根拠を提供する政府間組織
「ネイチャーポジティブ」、「リジェネラティブ」――こうした言葉を耳にする機会が増え、生物多様性の重要性について、国内認知がやっと高まってきたと言える日本。しかし依然として生物種の絶滅スピードは加速の一途を辿っており、漁獲資源の減少やミツバチなどの減少が食料生産に打撃を与えるなど、私たちの生活レベルに影響するほど、生物多様性の喪失は危機的状況を迎えています。
こうした生物多様性の状況を、科学的根拠を持って伝え、世界的な共通認識の形成のために貢献してきた団体が、2024年ブループラネット賞を受賞した「IPBES(イプベス・生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学-政策プラットフォーム)」です。IPBESは、生物多様性や自然が人間にもたらすもの(NCP:Nature's Contributions to People ※)に関する、最新の科学的知見やエビデンスを評価し、政策決定のための根拠を提供しています。IPBESは、気候変動問題におけるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)と同じような役割を担っています。加盟国(日本は2012年から加盟)の要請に基づいて、国境を超えて科学者たちが力を合わせ、先住民や地域の知識を含む多様な知識体系から生物多様性に関する科学的証拠を集約し、自然が人間にもたらすものを評価。いくつもの重要な評価報告書を発表してきました。
「IPBESの設立のきっかけとなったのは、1992年に開催された地球サミットです。このサミットにより、国連気候変動枠組み条約(UNFCCC:United Nations Framework Convention on Climate Change)と生物多様性条約(CBD:Convention on Biological Diversity)が設けられました。
UNFCCCは設立当初から、1988年に設立されたIPCCによって提供される気候変動に関する科学的情報の恩恵を受けることができました。しかし、生物多様性の喪失に関する議論はそこまで進んでおらず、地球サミットから20年ほど経った2012年、ようやく、私たちIPBESが設立されました」
気候変動と生物多様性に関する科学と政策の関係を比較しながら、このように設立経緯を話してくださったのが、2014年から事務局長を務めるアン・ラリゴーデリー博士です。博士は、「私たちの役割は、政策を提案することではなく、関連性があり信頼できる情報を提供することです。施策に信頼性、正当性を担保する存在であろうとしています」とIPBESが大事にする立場を語ります。
例えば、IPBESの評価報告書は、IPCC評価報告書同様、政策立案者向けの要約が含まれていますが、この要約には、「各発見や対応策に対して専門家がどれだけその評価に確信を持っているか」という注釈がつけられており、読み手が、それぞれの主要メッセージについて、現時点での知見とその確からしさをより明確に理解できるようにしているのです。
さらに、IPBESは学際的アプローチも大切にしています。科学的知識だけでなく、先住民・地域の知識を含む複数の知識体系に依拠しながら生物多様性の状況を評価しているそうです。
※自然が人間にもたらすもの(Nature's Contributions to People, NCP)
「自然が人間にもたらすもの」とは、人間が自然から受けるすべての関わりのこと。生態系の財やサービス、事物だけでなく、害虫、病原体、捕食者などのネガティブな関与も含まれる。「自然が人間にもたらすもの」は、大きく以下の3つの貢献に分類される。
1自然の調節機能による貢献:生物や生態系が持つ機能的・構造的な側面を指す。これらは、人間が生活する環境の条件を変化させ、物質的・非物質的なものの生成を維持・調節する。(例:水質浄化、気候調節、土壌浸食の抑制)
2 自然による物質的な貢献:人間が生きていく上で必要とする物質、事物、その他の自然界由来の要素を指す。これらは、社会や企業の運営に必要なインフラ(建物、道路、電力供給など)の維持にも必要である。具体的には、植物や動物が食料、エネルギー、住居、装飾品などに加工され、利用される過程で消費されるものが当てはまる。
3自然による非物質的な貢献:個々人や集団としての主観的・心理的な生活の質に寄与するもののこと。このような目に見えない恩恵をもたらす存在は、利用過程で消費されるもの (例えば、娯楽や儀式としての釣りや狩猟における
動物) と消費されないもの (例えば、インスピレーションの源としての個々の樹木や生態系) がある。
「約100万種が絶滅の危機にある」――2019年のIPBES地球規模評価報告書が生物多様性の危機に対する世界の意識をかつてないレベルに高めた
IPBESはこの10年で、11の画期的な報告書をまとめてきました。
2016年には「花粉媒介者、花粉媒介及び食料生産」というテーマで、ミツバチや蝶、鳥、コウモリなどの花粉媒介生物が激減していることを科学的に明らかにし、食料生産と食料安全保障にとって大きな経済的損失を与えていることを明らかにしました。この報告書は世界に大きな衝撃を与え、IPBESの存在意義を広く知らせる転機にもなりました。
IPBESが2019年にまとめた「生物多様性と生態系サービスに関する地球規模報告書」は、世界から約500名の科学者が参加し、1万5000以上の文献を参照し、2万件の専門家の意見を取りまとめたものです。この地球規模報告書で、非常に重要な知見を得ることができた、とラリゴーデリー博士は述べました。
「まず、自然は、人類の歴史上かつてない速度と規模で失われている、そしてそれは人間活動によるものであるという知見です。地表面の75%が大きく改変され、推定810万種の動植物のうち約100万種が絶滅の危機に瀕していることがわかりました。この数字は生物多様性の危機のひとつのシンボルとなり、世界中で広まりました。今でも、人々が生物多様性の喪失について語る時、この数字は必ずと言って良いほど引用されています」
2つめの知見は、自然が人間にもたらすもの(NCP)が世界的に劣化しているということです。NCPには18のカテゴリーがありますが、そのうち14カテゴリーがこの50年間で劣化していました。この14カテゴリーは、「調整機能による貢献(Regulating NCP)」、「物質的な貢献(Material NCP)」、「非物質的な貢献(Non-material NCP)」の3分類を全て含んでおり、そのうち10カテゴリーが「調整機能による貢献」に分類されるものでした。そして、この「調整機能による貢献」は、人類が依存している生態系の重要な機能に関連しています。例えば、作物の授粉、気候変動の緩和、十分な量と質の淡水の提供、病気の発生の抑制などの生態系の能力が、過去50年間で劣化してしまったのです。
「自然が人間に自分らしさや身体的・心理的な体験を提供する機能など、自然による非物質的な貢献も同様に劣化しています。非物質的な貢献は数値化することが難しいことが多いのですが、人々の生活の質にとても重要な役割を持っています。人は、帰属意識のある土地や自然環境を失うと、自分の一部を失ったような感覚を持ち、自分の価値が失われたように感じるのです」(ラリゴーデリー博士)
価値観をアップデートし、生物多様性の尊重を。あらゆる活動に生物多様性を組み込む
「生物多様性喪失の原因に働きかけることが必要です。IPBESは、5つの直接的な原因を特定しました。森林破壊、海洋での乱獲、気候変動、環境汚染(農薬、プラスチック等)、侵略的外来種の5つです。人々は行動を変え、自然喪失の直接的要因に取り組まなければいけません。自分たちの価値観をアップデートする時に来ています。全ての行動や決定の根底にあるのは、結局は個々人の価値観と行動です」
ラリゴーデリー博士は、これから私たちが起こすべき行動についてこのように語ります。そして、こうした内面にある要因の考察とともに、博士は具体的な対策について、「最初の対策は破壊されていない地域の自然を保護して維持することです」と述べました。
この対策は、2022年12月に生物多様性条約のCOP15で採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組」に、2030年までのグローバルターゲットとして盛り込まれました。いわゆる「30 by 30目標」と呼ばれるもので、陸域海域両方の保護区域を拡大して管理することを目指します。日本政府もこの枠組みに同意しており、陸域海域の30%を保護区域にするべく、すでに動き出しています。
「この目標において重要なのは、代表性のある、保護すべき生態系を見極めて区域を定め、効果的な管理を行うことです。また、気候変動の結果として生物種が移動できるように、保護区域同士がつながっている状態にすることも重要です。しかし、陸域と海域の30%を保護すればよいという話ではなく、地球表面の残りの70%にも目を配らなければいけないのです。そのためには、生物多様性を、経済活動の中心に据えることが必要になるでしょう」(ラリゴーデリー博士)
また、ラリゴーデリー博士は、生物多様性における農業の重要性も強調します。農業は土地をめぐって自然生態系と競合し、温室効果ガスの排出や汚染を引き起こします。例えば、農薬は生物多様性や人々の健康に害を及ぼします。IPBESは、環境に負荷をかけない農業を実践すれば、人間は陸域の生物多様の回復に踏み出せることを示しました。しかし、「農家が慣行農法を変革するのに必要な支援が得られないために、環境負荷をかけない農法への切り替えが進んでいない」と博士は現状を指摘します。
「スピード感を持って生物多様性の喪失を食い止めるために、農業の改革は近道であると言えるでしょう。農業は、生物多様性を損なう5つの直接的な原因に関係しています。
農家だけではなく、消費者にもできる大切なことがあります。より健康的で持続可能な食生活をすることです。生態系に配慮して生産された農作物を選び、環境負荷の高い動物性タンパク質の摂取を減らすことで、森林伐採や過剰漁獲を減らし、生物多様性の回復に貢献できます」(ラリゴーデリー博士)
全ての人に役割がある。食べ物を選ぶこと、投票すること
2019年のIPBESの地球規模評価報告書は、発表後わずか1週間で、世界中の160カ国以上で報道され、55カ国語で3万3000を超える記事が出ました。ラリゴーデリー博士は、「IPBESは、生物多様性の問題を、気候変動と同様の緊急性と優先度に引き上げることに貢献できた」とこの10年を総括します。
「重要なのは、この報道により、同志が生まれたことです。気候変動だけでなく、生物多様性の損失という課題に気づき、例えばグレタ・トゥーンベリさんなど若い世代のリーダーたちも、彼らの言葉で、生物多様性の喪失に反対の声を上げるようになりました」
2019年の地球規模評価報告書の発表後、IPBESが示した知見が、世界経済フォーラムが毎年発表する「ビジネスにとって最も重要な5つのリスク」に初めて入りました。ビジネスの世界が、生物多様性に積極的に取り組み始めたのです。現在、生物多様性に関する指針を求める企業からの要望も多く、IPBESは、企業がどのように生物多様性を保護・回復・活用するのがより良いかを探る報告書をまとめているところだそう。企業と生物多様性に関する評価報告書は2025年に発表予定です。
IPBESは今後、各国政府の要請を受け、2028〜2029年に地球規模評価報告書をアップデートするべく動いてもいます。この地球規模評価報告書の第二弾は、政府が2030年の大目標に向けてどれだけ進捗しているのかという内容も盛り込まれるそうです。
まもなくIPBESは新たな2つの評価報告書を発表します。「ネクサス評価報告書」では、生物多様性、水、食料、健康、気候変動の間にある複雑な相互関係と相互作用について取り上げます。また、何の対策も取らなかった場合のコストを検討し、幅広い対応策を示します。もうひとつ、「変革的変化評価報告書」では、生物多様性危機の根本的な原因を明らかにし、より公正で持続可能な世界を実現するためのシナリオを評価します。
「IPBESは世界にインパクトを与えてきましたが、実際の各国の取り組みは充分ではなく、スピードも遅いと言わざるを得ません。ですから、私たちは、報告書を作成するだけでなく、政策決定者とより深く関わっていく必要があります。科学的なカルチャーと、政府のカルチャーは全く異なります。しかし、我々の報告を政策に反映し、実質的に生物多様性の喪失を止めるには、科学者と政策立案者の間に、長く大きな橋を架けなければなりません」(ラリゴーデリー博士)
最後に、博士は、一般市民が生物多様性に対してできる二つの助言をしてくださいました。ひとつはまず、食べ物を注意深く選択することです。持続可能な農業と漁業によって生産された食べ物を選び、熱帯雨林を破壊する要因になる動物性タンパク質や、乱獲の要因となる魚介類の量を減らすことが、生物種の保護に貢献します。二つめは、選挙権を持つ市民は、生物多様性を大事にする政治家に投票することです。
「全ての人に、役割があります。若い世代と共に、環境の劣化が進むマイナスのトレンドを、プラスの方向へ変えなければいけません。生物多様性の喪失の問題は非常に複雑です。色々な科学分野、社会学も自然科学の人たちも関わる必要があります。たくさんの学問、文化、社会とつながることで、問題解決の時間を短縮することができるでしょう。皆さんのこれからに期待しています」
Profile
生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学-政策プラットフォーム (IPBES)
2024年ブループラネット賞受賞団体
IPBES(生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム)は、生物多様性と自然が人々にもたらすもの(NCP)に関する世界中の知識に基づいて、政策決定者に情報を提供する政府間組織として2012年4月21日に設立された。IPBESの画期的な評価報告書は、様々な規模、知識体系において証拠に基づいた政策や行動の基盤となっている。本拠地は、ドイツのボン。アン・ラリゴーデリー博士は、2014年より事務局長を務める。